街の底

「街の底」というタイトルは横光利一の同名小説からの引用なのだろうが、しかしこの言葉には吉野さんの生き様やスタンスがよく表れている。

イースタンユースというバンド、あるいは吉野寿という人間は、大宰治や坂口安吾といった文人たち(無頼派)が主張したテーゼを愚直に実行し続けている存在だ。泥まみれになりながらも、拳を握って、抗いながら生きていく。一人で。初期のoiパンク期を除けば、彼らはずっと一貫してその態度を保ち続けている。同じことを主張し続けているからこそ、彼らの音楽は年々その重みを増し続けてきた。

彼らは、2015年に『ボトムオブザワールド』という大変な傑作を完成させた。リードトラックは「街の底」。アルバムのタイトル「ボトムオブザワールド」もこの曲の題の翻訳であると取れる。「街の底」とは一体どこであるのか。それは皆まで言わずとも吉野さんの書いた詩を読めば、何となく想像ができるだろう。

ところでこの曲もそうだが、イースタンユースの曲にはしばしば「街」の具体的な情景が登場する。吉野さんがそう意図しているのかは分からないが、僕はイースタンの詩のそのような傾向から、彼の覚悟の重さを感じる。歯を食いしばって堕落しながらただ生きていく。それは言葉の上ではただの絵空事で、人生を賭して実行してはじめて説得力を持つ。吉野さんは、「そう生きる」ことを実践する中で、必然的に「街」に拘るようになったのではないだろうか。ただ市井の人として街の中で泥臭く生きていく、という彼の一貫した態度を、堕落の思想の誠実な実践そのものであると僕は解釈する。また彼は状況以来ずっと荻窪に居住していて、そしてそのことを公言している(https://ototoy.jp/feature/20181114)が、ここにも吉野さんの「街」への拘りを読み取ることができる。

それから、吉野さんの「街」の描写の中には、身体的な運動の様子が度々登場する。例えば「街の底」では、「路地裏で巻く」「走り出して」「彷徨ってる」などなど。他にも、例えば代表曲である「踵鳴る」なんかは、タイトルそのものに身体運動の様子がよく表れている。言葉の上で考えているばかりでは、こういう表現にはたどり着かないだろう。これもまた吉野さんが「本気で」生きてきた証だ。人生を賭けてガムシャラに足掻き続けたがゆえに獲得した身体的な言葉遣いである。

一方で、彼の音楽にはユーモアを感じられる瞬間も多々あって、それもまた特徴的だ。自分の人生や運命に対して、泣きそうになったり歯を食いしばったりするだけじゃなく、時にはそれをバカげたものだと豪快に笑い飛ばす。悲壮感が漂っているのも気合いで滾っているのも好きなんだけど、やっぱりその痛快さもまた好きなポイントの一つだ。

 

こういうのを全部ひっくるめて、イースタンユースおよび吉野寿さんのことを、僕は強く尊敬しています。

 

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誰かの傲慢も、己の傲慢も、何もかも全てを否定しながら生きていこうとすると、矛盾だらけになってつらいのだけど、それでも、涙を流しながら拳を握りながら破顔一笑しながら生き延びていくしかない。というのは一つの結論で、僕としては基本的にその態度を引き継ぎながらいくつかの新しいものを付与していきたい気がしている。というおまけ話。