2021-07-23 意外と

人間の悩みや苦しみというものが一体どこからやって来ているのか、というのはここしばらく僕にとっての一つの問いだった。自分自身や他人が悩んでいる様子を観察しながら僕が得た一つの結論を説明すると、人間の悩みは、ざっくり言って、長期的・根源的なものと短期的・表面的なものに分けられるのではないか、ということになる。

例えば、学校の試験についての悩み、進路についての悩み、人間関係についての悩みなどは、後者に当たる。これらはいずれも、悩みのタネが明確であり、そして答えを見つけても見つけられなくても、その悩みは時間が過ぎれば明確にクリアされる。それとは別に、例えば自分はこの人生でどう生きたいかとか、過去の過ちがどうだとか、そういったもっと大きな悩みというものも存在する。このような大きな悩みは簡単に解決されることはない。その人にとっての根源的な問題として、精神の深いところから頭や心を悩ませ続ける。

この二つの次元の悩みは、もちろんそれぞれ複雑に絡み合いながら立ち現れるものであるのは確かだが、それでも悩みの「深さ」の次元が明確に異なっている。そして「浅い」ことで悩んでいる人間は、やはりどこか「浅さ」のある人間であり、自分自身にもそのような傾向があることを恐れていた。

そして僕は、自分にとっての短期的・表面的な方の悩みの原因の一つを最近解消することになった。がしかし、案外、悩みや不安が僕の中から消えることがなかった。苦しさが解決されないことにウゲーっとなる一方で、変な話そのことに安心している自分もいる。意外と人間そう簡単に変わらないのだ。

結局のところ、より根源的な方の問題を解決しない限りは短期的な悩みが立ち現れ続けるではないかと思う。また人間の悩みとは「深い」かどうかで簡単に二分できるものではない。ならば、それでいい。ゆっくり時間をかけて自分にとっての大きな問いを少しずつ解いていけばいい。他人の悩みに対しても、今までよりももう少し真摯に向き合えそうだ。

 

もう一つ別の話題についても書いておく。今日、東京オリンピックの開会式が行われた。

よく知られているように、今回の五輪の開催においては我々の社会が持っている様々な歪みや問題が露呈化しており、(少なくとも本日に至るまで)市民の多くは大会の開催に対してポジティブな感情を抱いていない。

ここで僕という人間についての個人的な話をする。はっきり言って、僕は高校を卒業する頃まで「右翼的」あるいは「ネトウヨ」的な性質を無自覚に備えていた。そこには地方や家柄の問題も関係しているが、やはり一番大きいのは時代性の問題であると思う。

我々の世代は物心ついた頃から、日本や地方都市の未来があまり「明るい」ものではないかもしれない、と言われ続けてきた世代だ。まさに栄枯盛衰のごとく、かつてこの国にあった経済大国夢物語は終わりを迎え、これからの日本では人口は減り、お金はなくなり、少しずつ斜陽へ向かっていく。我々はこんな「暗い」話を大人たちから聞かされ続けた。

明るい未来が想定できないならば、偽りの虚構を自ら作り出すしかない。その一つの手段が、「国の力」を素朴に信じ込んでみるということになる。僕がネトウヨ的な価値観に魅了された背後にはそのような心理があったと思う。

だから、僕にとって今回の五輪はとても特別な意味を持っていた。小学校を卒業する頃に、東日本大震災で国土と人間が破壊される様子をテレビで眺めて何とも言えない虚脱感を経験して、そこから突然沸いた「明るい」知らせ。中学生だった僕は、来たる未来に東京で五輪が開催されることに素朴に歓喜し、そしてその開催を心待ちにした。

がしかし、実現に至るまでの過程において、ひどいことばかりが待ち受けていた。エンブレムの盗作問題だか何だかに始まり、スタジアムの建設問題、猛暑問題などなど。数えきれないほどの問題が顕在化してきた。そして2020年には感染症の拡大の件もあり、事態はさらなる混乱を迎える。

別の方面から「国の力」を信じることができなくなっていたこともあり、ここまで来て、僕の五輪に対する素朴な期待は完全に打ち砕かれる。もはや世論の様子を耳にするのも苦痛で、意図的に嗜好から五輪のことをシャットアウトした(こんな風にして開催の実感が湧かぬまま今日を迎えた人は少なくないのではないだろうか)。

そして何だかんだで今日という一日を迎える。そして何だかんだで、(実家にいるのだけど)テレビをつけて開会式を見る。そして何だかんだで、意外と関心を惹かれ意外と心を熱くさせられる。自分の単純さに呆れ笑ってしまうのだけど、欺瞞で満ちているのを理解しているにも関わらず、作られた嘘っぱちの物語に否が応でも心を揺すぶられてしまう。何かの力を信じられないと意識しながらも、意外とまだそんな偽りに期待しているのかもしれない。

 

ところで話題が変わるのだが、近年「正しさ」みたいな実体のない規範もどきが世論の中で一人歩きしている状態はとても気持ち悪く思える。小山田圭吾が世間(これも実体のないものだ)からバッシングを受けた件もそうだ。今の世の中で求められる「正しさ」は一介の人間が実現できるものをはるかに超えている。このままでは暴走した実体のない「正しさ」が人間をひどく怯えさせ、行動を過剰に制限するものになり得ると思う。そうなってはいけない。特に、表現の分野であるならなおさらだ。

そして今日、五輪の開会式を見て合点がいった。「多様性」という言葉が繰り返し述べられる中で、「調和」ということが言われていたからだ。なるほど、「多様性」なるものが認められるようになって個人の特色が仮に認められるようになったとして、それらが全て独立して動き回っては全体が制御不能のディスオーダーに陥ってしまう。だから、個々の「多様性」とやらを認める一方で、それらをコントロールしなければならない。世の中で起こっている様々な事象を考える際、「調和」のための制御と考えれば納得がいくことが多いということに気づかされた(言っておくが、この制御を僕は好んでいない)。自身「正しさ」にひどく魅了される性質も備える僕であるからこそ、このような時代の傾向に何とも言えない気持ち悪さを覚えている。

 

以下、今日の自分にとっての結論。「真面目」なしもべとして愚直に生きることができない自分は、「不真面目」なアプローチでぐちゃぐちゃになりながらも、有り体の「真面目」に負けない自分なりの何かを実現していくしかない。そんな態度で、この時代と、それから自分の精神に根付く閉塞感を何とか克服する。

また、人間というものに等しく関心を持つようにする。くだらない(boring)かどうかとかおもしろい(funny)かどうかとか、期待や諦めとは別の次元で、興味と関心を持つ。そんな風に生きていれば退屈せずに済むと思う。