2020-09-21

 

 


その漠然とした感情や実感において、自分とこの上なく共鳴する人がいたとする。昔はそういう人と会って話をする機会が得られれば、お互いに相手の話にうんうんと頷き合うことによって、その悩みやつらさは共感され、多少なりとも晴れやかな気分になれるものだと信じて疑っていなかったけど、現実にはそうでもないことをこの頃思い知らされつつある。時間・空間の制限、文脈の束縛、言語の限界など、現実世界には様々な足枷がある。もし仮に心の共鳴のようなものがあったとしても、言語のコミュニケーションによって、お互いがその気持ちを吐露・理解し、そして満たされるというのは、なかなか難しく、実現されるものは、概念の上での完全な相互理解からは程遠い。あるいは、ぼんやりとした絶望や諦観は、理路整然とした言葉でもっと説明できる思想や主義よりも、言葉でやり取りするのがもっと難しいものであるのかもしれない。

会話という行為に対して、その乏しさには絶望するばかりだけど、本当にそんなに貧しいものなのか。対面でのコミュニケーションにおいては、非言語の領域において、何かすごく重要なことを伝達できるのではないか。あるいはもっと別に何かすごい力を持っていることはないか。人間がコミュニケーションにおいて満たされるためにはどうすればいいのかを探求したい。