2020-12-15

昔(ざっくり言うとエヴァ以前)のアニメ作家のことをチラチラ調べてみると、ナイーブなオタクとそんなオタクの慰めものと化していく閉鎖的なアニメシーンへの批判を目にして、自分のことを言われているみたいで、心にチクチク刺さるものがあった。思い返してみると、例えばジブリの作品には、社会風刺であったり、グロテスクな表現であったり、何かと現実の世界や社会のことを想像させるものが多かった気がする。それと比較すると、アニメ版ポケモンエヴァ、あるいは00年代以降の深夜アニメ群には、そういう匂いはあまり感じない。いずれも、ある程度定型化された表現(その中に差異的な形で作家性や独自性が現れてくるというのが興味深いのだけれど)を用いて、現実とはどこかかけ離れた閉鎖的な虚構の世界を描いている。だからこそ、見ていて安心感を覚えるのだろう。「セカイ系」なんていうのは、自分にとってはほとんど普遍的なものとして、もはや当たり前のように受け止めている気がする。ある種の、オタクのオタクによるオタクのための慰めもの、として作品を受け取っているところがあるのかもしれない。

小さい頃にジブリ作品を見て感じた言い知れぬ恐怖は、現実の社会への恐怖だったのだろうか。そう考えると、何もわからなかった幼いころに自分の意志とは無関係でそんなものを突き付けられたら嫌悪感を覚えるのは必然的だったのかもしれない。だけど一方でそれらの作品を今見返したらどういう風に感じるのかには少し興味がある。ツタヤで借りるかあるいは金曜ロードショーあたりでやっていれば、見てみたいところだ。

既に持ち合わせるものの上に新たな経験が積み重なって層を形成し、そうして心や人間性というもは豊かになっていくのだと考えておくと、気持ちが少し楽になる。