2023-06-07 メロディー

今日朝起きたら、耳鳴りと頭痛が消えていた。低気圧の影響だったのだろうか、いずれにせよ鬱陶しいのがいなくってスッキリした。

昨日送ったメールについてだが、ものすごく親切な返信が届いて、すっかり感激してしまった。教員としての義務的な親切心以上に、期待の混じったアツい親切心を感じた。がんばらねばという気持ちになる。

Twitterでも告知を行ったが、現在、私的音楽同好会というサークルのプロジェクトを密かに進めている。色々なバックグランドを持つメンバーが集まっていて、それぞれの話を聞いていると、同じく音楽に関心を向ける者同士であっても、その関心のあり方はみな異なることに気が付いた。

例えば、歌詞。例えば、演奏。例えば、フィクション論。例えば、社会への影響。例えば、クラブカルチャー。色々な関心のあり方が垣間見えている。

自分の最大の関心は、音楽によってリスナーに生じる心の動きであるだろう。僕の関心は、①単純に音楽を聴いている瞬間に起こる心の動きと、②音楽を聴いていない時間も含めて発生する音楽への思い入れ、の2種類を含んでいる。

音楽による心の動き、それは各要素が組み合わさって発生する、総合的な結果だ。つまり、その心の動きを読み解いていくためには、各要素の一つ一つを見ていかなければならない。
それに、ただ一つ一つを見ていけばいいというわけでもない。複合物を考える際には、解釈の上での要素への着目の仕方には、ある種のセンスが問われるだろう。
例えば、都市は人や空間や文化から成る複合物であるが、それを一つ一つ〝全て〟に着目することは実質的に不可能である。実際には、必ず〝ある部分〟のみに着目しなければいけなくなる。
心の動きも、きっとこれと同様だ。メロディー、コード、歌詞、ジャケット、ミュージシャンの人柄、音楽シーンとしてのカルチャー……様々なものがファクターになっている。その中から〝ある部分〟のみを抜き取って語ることしか許されないだろう。

最近上のような整理が自分の中で付いてきたわけであるが、その上で自分が過去に書いていた音楽レビューのことを思い出す(恥ずかしいから読み返しはしない)と、自分の中で関心は一貫している気がする。つまり、自分自身の心の動きを叙述することで、音楽について語ろうとしてきた気がする。

そこまで考えを巡らせてみて、一つの事実に気が付いた。自分の関心は、音楽の実態そのものにも当然向いているわけであるが、同時にリスナーの置かれている〝状況〟にも向いている。例えば、散歩しながら聴いているのかとか、朝の電車の中で聴いているのかとか、留年の真っ最中に聴いているのかとか。そういった、自分の置かれている状況をいつも自分は大事にしてきた(①聴いているその瞬間的な場面と、②その時期の社会的な立ち位置の、二つの状況という意味だ)。

おそらく、自分は私的音楽同好会の雑誌の中では、音楽に関するエッセイを書くなどリスナー論を展開することになるが、その中で上のような自分らしい関心をうまく展開していきたい。

さて、それはともかく、あくまで趣味の範疇ではあるが、音楽の情動に関する研究は今少し読み進めている。

例えば、下の文献の源河亭さんが書いた章なんかでは、音楽による感情の喚起についての定説として「喚起説」や「類似説」というものが提示されていて、門外漢の自分にとっては中々新鮮で面白い仮説に思えた。
前に同じようなことをブログに書いたが、他の文献ももう少し読み進めたいところである。

filmart.co.jp

そんなことをごちゃごちゃ考えているわけだが、それはともかく、ここ半年ほどは、「音楽はすごい!」という原初的な大発見を繰り返している毎日である。

下の曲「ルーミスエテルネ」のメロディーの素晴らしさ! メロディーがメロディーだけで希望のメロディー足り得ていることの摩訶不思議さ! 単純に気分が明るくなるという以上の希望の象徴としてのメロディーがあるよね。

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