『散歩の達人 2020年6月号』/交通新聞社

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散歩という趣味は、この世間において根強い人気を誇っていて、それを取り扱ったテレビ番組や本がごまんとある。『散歩の達人』もその一つと言っていいだろう。

この際だからはっきりと言うが、地理好きだの散歩好きだのそのようなことを自称する人たちの間には、なんとも嫌な空気がはびこっているような気がしてならない。己の見識の深さを見せびらかしてやろうという誰かの虚栄心が、別の誰かを怯えさせる。怯えたその人も、己の自尊心を守るために同じ行動を取る。そうしてみんな疑心暗鬼になって、見えないところでくだらないマウンティングレースを繰り広げている。こんな風に感じてしまうのは一種の被害妄想なのだろうか。あるいは、知識や経験を豊富に持つということは他人に対してそのように高圧的な印象を与えることから逃れられない、という構造の問題による部分も大きいと思うが。

ともかく、街を歩き、街を知るという本来気軽に行える活動に対して、俺はどこか怯えのような感情を抱いてしまっていた。そのような精神は、『ブラタモリ』というカジュアルなテレビ番組に対してでさえ、ほとんど嫌悪に近い感情を抱かせた。このままではいけないと思っている。ゆえに、本誌を手に取った。

 

結果。案外、楽しんで読むことが出来た。各々自由な観点から綴られた15の散歩エッセイ(あるいはインタビュー)と綺麗な写真は、パラパラと眺めているのにちょうどよかった。旧町名の話、雲の話、暗渠の話、看板の話などは、押さえておくと見方が分かる簡単な知識が書かれているのも良いと思った。また、町田忍さんやトリプルファイヤーの吉田さんなど、音楽や執筆の活動で名を売っている人が集結しているという構図も、不思議に笑えるものがある。

特に印象的だった箇所について。まず、冒頭の穂村弘さんへのインタビュー。何も分からないから自分だからこそ書けるものがある、と語る穂村さんが印象に残った。言葉は、自分に言い聞かせるように理想を語ったものである場合も多いが、この人は、実際どれくらい劣等感を振り払うことに成功しているのだろうか。生きて短歌を作り続けた結果、明鏡止水の領域にたどり着いたのか。あるいは、何だかんだで分からないことに今でも振り回され続けていて、だからこそ瑞々しい言葉を生み出せているのか。気になる。

また、これはまち云々の話とは関係がないのだが、巻末にある樋口毅宏さんの長渕剛評が良かった。彼のすべてを肯定するわけでもなく、また強く否定してしまうわけでもなく、共に時代を過ごした一人のリスナーとしての素直な実感を込めて思うところを記しているのに、強い共感を覚えた。このように、最近は他人がその思いを記した文章に対して以前にもまして好奇心のようなものを強く抱くようになっている。俺がこのブログに綴っている文章は、いずれもひとりよがりの貧しいものであると自負しているが、その執筆が自分自身に引き起こしているこの変化について、俺は前向きに捉えている。