2021-05-17 Happy Talking

このところずっと、グループでの議論とそれに向けた個人作業で、てんてこまいになっている。自分の自由意志とは別の次元からの働きによって、常にグループワークに精神と身体が束縛されているような状態だ。

単純な作業量の意味でも楽ではないのだが、それ以上に、自分の意志と(それと同格の存在である)複数の意志をうまく擦り合わせていくのに苦労を感じる。あるいは、これはほとんど自分のネガティブな性質が原因なのだが、他人とコミュニケーションを取る中で、自分の人格が否定されているような気になったりもして、余計な精神の疲労を負ってしまう。

 

 

こういうリスニングの態度に問題点があるのは理解しているが、どうにも自分は、自分の嫌なところを認めるため、あるいはゆるすために、音楽を都合よく利用してしまっているみたいだ。そんな「イタい」自分が恥ずかしい気持ちもあるにはある気がする。でも、誰が見ているかもよく分からないブログにこんな文章を投稿しているということは、そんな「イタさ」を認めたい、大事にしたいという気持ちが大きいということなのだろう。

無慈悲なことに、人間の社会的位置づけは時間とともに否応なく変化していく。「イタさ」がゆるされる時代はいつか消え去って、年相応の振る舞いが求められるようになる。その流れの中で、「自分」を捨てずにいるためには、どうすればよいのか。

次第にモラトリアムは終わり、それなりに社会的な振る舞いが求められるようになっていく。生活の多くの部分において、自己の思考や行動を社会に合わせて矯正する必要がある中で、「自分らしさ」みたいなものをどうやって保持するか。最近、そんなことをよく考える。

音楽は、自分にとってそのためのメディア(手段・媒体)になり得るのかもしれない。自己の感情を確認するための道具として、僕は音楽をこれからも聞いていたい(あるいは音楽を表現できるようになりたい、とは思っている。これはあまりにも未熟な願望であるが)。

 

 

スーパーカーを聞いている。『Futurama』も最近のお気に入りなのだが、やっぱり『スリーアウトチェンジ』は良い作品だ。この頃のギターロック然としていたスーパーカーには、何とも青臭い魅力がある。

彼らの音楽は、重層的な特徴を持っている。いしわたり惇治の紡ぐ感傷的な歌詞を、中村弘二が冷めた声で歌う。また、曲によってはフルカワミキがコーラスやメインボーカルを務めることもある。さらに、歌の上にひどく歪んだギターが乗っかることで、歌と言葉を覆い隠す。

スーパーカーのメンバーは、デビューから解散に至るまでずっと固定であった。本州の北端、青森県で偶発的に集まったメンバーが個性をぶつけ合うことで、一つの音楽を創り上げる。結果的にはメンバーの間で方向性が食い違うことで、バンドは解散してしまうのだが、それも宿命であったのだろう。その点は、例えば、くるりみたいに、フロントマンが強力なリーダーシップを取って流動的なメンバーで活動するバンドとの大きな違いだ。スーパーカーは、メンバーがそれぞれの個性をぶつけ合い、またその中で音楽性を変化させ続けるバンドであった。だからこそ、彼らの音楽は素晴らしい。

 

『スリーアウトチェンジ』の頃の彼らの音には、青春のきらびやかさを感じる。それも、輪の中心に立って騒いでいるような賑やかさではなく、隅っこでむすっと黙っている感じ。隅っこのやつらが徒党を組み、青っぽい音を奏でる。そこにティーンエイジャー的なバンドドリームを感じてしまう。

愚かにも、また音楽作品にかこつけて自分の思い出話を語ろう。いつかの春、東京から石川へと戻る新幹線の中。退屈をしのぐために、ストリーミング音楽サービスであるspotifyにその場ではじめて登録した。その時に聞いたのが、確か『スリーアウトチェンジ』だったような。時間の経過からかもはや記憶は定かではなく、またこの作品に付随する思い出も日々更新され続けているため、その時の体験を正確に思い起こすことはできない。だが、今でもこの作品を聞くたびに、いつかの春を想って何だか懐かしい気分になる自分がいる。

「Happy Talking」は、フルカワミキリードボーカルを取っている楽曲だ。何なのだろう、この可愛い感じは。上にも書いたように、むすっとしているような印象を受ける。芯はまっすぐで、でも外への態度は捻くれていて。それが妙に可愛くて。

 

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