2021-06-23 トンビ飛べなかった

新型コロナウイルス感染症について、基本的には口をつむぐ態度を貫いてきたが、別にそのことに大した意味もないので、軽々しくもここで自分の所感を少し表明しておく。責任感をもって書かれた文章であっても、あるいは素朴な所感であっても、そこに「信念」さえ見出せるならばそれで良いのだろう。

今日ある前期課程時代からの知人と久しぶりに会って話したときに、何だか自分の変化を感じた。家に籠りながら誰とも会わずに暮らすことを覚える中で脳が変質してしまったのかもしれない。元々他人からの視線を呑気にあしらえるほど図太くはなく、またそれを器用に回避できるほどの器用さも持ち合わせていなかったが、それでも自分なりにねじれた対処法で何とか集団生活をやり過ごしてきた。突然の自宅生活を強制されて以来、それが見事に崩された。他人から見られている中で必死に振る舞うための技はもはやゴミ同然で、誰からも見られていない中でどうするかというロジックが求められる世になった(インターネットという電子空間で他人と接続されているということは事態をややこしくしている)。

その生活に適応する中で、脳の回路が変質してしまったのかもしれない。最近それを感じる。うまく言えないが、他人の視線に対する感じ方が少し変わった。ある種堂々と鈍感に振舞えるようになった。その意味では以前よりも楽になったと言える。一方で、キツくなったと感じるところもある。一人でいることに慣れてしまっているために、他人からの視線を浴びせられると心がひどくよろめく。腰を据えて話すような特別な時間であるならば歓迎できるのだが、知り合い同士で何となく一緒に過ごすような時間が落ち着かない。自分が一人でいるときに育んできた自己肯定のための苦し紛れの論理が壊されていくのを感じて、何だか息苦しくなる。あるいは、自分を知る人からじっと見られているのを意識すると何だか恥ずかしくなる(インターネットという電子空間で精神的全裸プレイをやっているということは事態をややこしくしている)。

鈍感になったのか、それとも敏感になったのか、変なところで変な変化が起こってることに自分自身戸惑う。この一年間と少しの日々は確実に自分の性質に何かの作用を与えている。またここには、精神的にあまりに未熟であったとき、東京で一人で暮らしていたとき、都市を学ぼうとしていたとき、という三つの条件が重なっていたことも大きく影響している。いずれにせよ、遠い未来の僕は恐らくこの日々を懐かしく回想しているのだろう。そして、「あの日々はこういう風に自分を大きく変えた」とか何かしら適当な意味を後付けで与えているのだろう。

 

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回想、いつかの日々。飛べなくてもそれでいいんだよね。