2021-06-25 テン年代オタクの行方

先々週くらいから時代性の中でのオタクの気質の変化について考えされられることが多い。まず、ゼロ年代に突入するまでのオタクの変質を総論し(またその未来を大胆に予測することに成功し)た東浩紀の『動物化するポストモダン』を読んだ。それから、ゼロ年代オタクカルチャーにおける自意識過剰性とポルノ性をメタ的に表現し、その上でメタ・ポルノとしてオタクの「虚構」にすがるあり方を再肯定することに成功したアニメ『俺たちに翼はない』を観た(原作も買った)。さらに、アーツ千代田で開催された『なもり展』(ゆるゆり作者の作品展)を見てきた。また、秋葉原には三日に一回くらいのペースで足を運んでいる。

自分の立場をはっきり述べる。僕はテン年代オタクである。その手の文化に浸かり始めた時期という意味でも、オタクとしての趣向や気質やアイデンティティの意味でも、ゼロ年代オタク的なあり方からは距離を感じる。ゼロ年代的なアキバ系オタクのスタイルと自分のスタイルは全然違うと思うし、またゼロ年代のアニメ作品を見るとその独特の空気感にギャップを感じる(それはそれで好きだけどね)。

そんな風に自分がテン年代オタクであることを再認識したうえで「日常系ムーブメント」が到来した意味を時代性の中から再解釈し、そこで提起されていた重大な何かを見出したいと考えている。具体的には『ゆるゆり』を再評価したい機運が自分の中で高まってる。

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アーツ千代田外観。オタク云々は置いておいて空間として良かった。

 

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なもり展。アニメ系が美術館や展示室で展示会をやるのはゼロ年代にはどれくらいあったのだろうか。今なもり展のようなものが行われてる背景には、オタクが一般化してきたことが影響しているのだろうか。

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移転したアキバソフマップのエロゲコーナー。文字通り隅へ追いやられている。

典型的なゼロ年代オタクは「大きな生きる意味」を失った時代の中で自意識が誇大化する苦しみの中で自分にとって都合の良い「虚構」を必死に作り上げた。そこでは「救う」べき相手としてのか弱い女の子(たち)が登場し、さらに主人公自身も彼女に「救われる」という関係がしばしば成立していた。また、オタクの内気な精神性を反映した「虚構」の世界では、主人公は非現実的な全能の力を持ち、また多くの女の子キャラから不可解なまでにモテる、という傾向もよく見られる。そして、女の子はその性的魅力がオタクの都合の良いように誇張された形でキャラメイクされており、その露骨な性的な描かれ方はポルノグラフィそのものである。また女の子キャラについては、主人公より弱い立場(妹、いじめられっ子)として設定されているパターンや、その子自身が精神を病んでいるパターンが見られる(そして彼女は同じように病む主人公を特別に気にかける)。どれもオタクの誇大な妄想そのものだ。

そしてテン年代では、もはやその「虚構」は解体されたのではないだろうかと推察している。『まどマギ』と『シュタゲ』と『おれつば』は、いずれも11年にアニメ化された作品である。これらの作品はどれもそれぞれ別の形でゼロ年代を総決算していることに成功している。また11年は東日本大震災が起こった年で、そのことも踏まえて11年以前と以後でアニメの流れを捉えると良いのかもしれない。その以後に出てきた作品として、日常系のアニメ群は特徴的だ。

日常系のアニメ群には、かつてのオタクが拘ったような過剰な自意識とポルノに満ちた「虚構」は全く登場しない。現代日本を舞台としたような場所で、女の子キャラクター達は、退屈な「日常」を淡々と生きる。まったりのんびりして、楽しくはっちゃけて、少し成長して、少し泣いて。その描写の節々には「萌える」ポイントが大量に仕込まれている。なお、ここでいう「萌え」においては、ゼロ年代にあったようなポルノ性はほとんど排されている。女性の性的魅力を過剰にクローズアップしてデコレーションしたようなポルノ的な「萌え」ではなく、もっと小動物的で、ある種素朴とでも言えるような「萌え」の概念が作品の内側およびオタクの鑑賞態度から見出される。はっきり書いてしまえば、男性オタクがその作品の女の子に性的興奮を得らえるかどうか(もっと言えば抜〇るかどうか)というリトマス紙で確かめると、日常系の「萌え」がゼロ年代のポルノ的な「萌え」とは異質なものであるということが分かる。

日常系アニメにおいては、オタクは「日常」を生きる女の子たちにただ淡々と「萌える」。だが、東日本大震災を経験している我々は、製作者もオタクも、みんなうっすらとこの「日常」は突然いともたやすく失われてしまうことを気づいている(あるいは意識せざるを得ない)。それでも、淡々と過ごすことを放り出さない。作品の中の女の子たちも、それを眺めるオタクたちも、いつか失われてしまうからこそ、今ある「日常」をより切実な思いで過ごす。

これは、この苦しい現実の中で我々が何とか生き延びるための解決策にならないだろうか。現実逃避としての「虚構」の妄想ポルノに耽ることは既に不可能である。ついでに言うと、インターネットによってあらゆるものが暴かれ相対化されてしまった現代では、宗教や政治などを盲目的に信じることもできない。今の時代で信仰を持つのは簡単なことではないのだろう(もしそれを求めるならば相対化された中で絶対的に信じられるものを見つけ出すか、あるいは自分の信仰心を都合の良いように捏造する必要がある)。我々は、「大きな生きる意味」を失ってもなお、目の前に与えられた現実世界を受け入れなければならない。その時、ゆるりとした態度で日常を受け入れることが有効な手法となる。全てを受け入れて、日常をただ淡々とゆっくり過ごす。これはつまり、na2winter流に言えば「ゆっくり時間流れろ」ということになる。一方で、その日常はいともたやすく失われてしまうということも既に明らかにされてしまっている。畢竟、我々の日常生活には、淡々としていることに加えて、粛々としていることが求められる。「終わり」が来ようともそれさえも黙って受け入れる。na2winter流に言えば「夕日が沈むのをじっと眺める」ということになる。以上をまとめると、退屈で苦しい日常を淡々とかつ粛々と生きる、ということになる。こんな風に、ありもしない「虚構」にすがるのではなく、あくまで現実世界の中で自分の生き方を変えていくということで「理想」を実現しようとする態度は、テン年代的な生き方であると言えるのかもしれない。

以上が、僕が提示する(オタクの)テン年代な生き方である。これを書いているのは2021年であるので、これは10年も遅れの言論になる。ニジュウ年代に(オタクが)どう生きていくのか、という予測はまた今後の記事でたっぷり考察させていただきたい。

 

 

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高校一年生の頃に『ゆるゆり』にどっぷりハマっていた。その頃は自宅環境の問題もありコンテンツそれ自体の質の差の問題もあり、僕は完全に原作派の立場であったのだが、改めてアニメ版のキャラクターソングを聞いてみるとこれがめちゃくちゃ良い。

どのキャラクターソングも、特に歌詞が、あまりに無意味でくだらない。というか、どうでもいい。昔(もっとまじめで強くあろうとしていた頃)聞いたときもそんな風に思って、その時はあまり好きになれなかったんだけど、でも今は逆に、このすがすがしいまでの空虚さから何だかハッピーな気持ちを与えられてしまった。退屈なこの日常を、無意味なおふざけで埋めながら楽しく生きていく。ゆっくりと。それもまた答えだ。